弱い魚m下賎な魚と見られてたイワシですが 平城宮跡から発掘された木簡には、イワシは約1200年前、当時の大和ことばに漢字を当て字として「以和志」あるいは「伊和志」などと書かれていました。
“和を以って 志となす”という、イワシにとっては嬉しい解釈です。


イワシの頭ようなつまらないものでも、信仰するととてもありがたく思えるということ。

 

平安の昔、イワシは下賎な魚とされ、上流階級の人々はおいしいからといって公に食べることをはばかられていました。
大のイワシ好きの紫式部(和泉式部という説もある)も陰でこっそりと食べていたのですが、ある日、夫に見つかり注意されました。しかし、そこは頭のいい式部のこと、とっさに“日の本に 祝われ給ういわしみず まいらぬ人は あらじとぞおもう”と、当時多くの人々信仰を集めていた石清水(いわしみず)八幡にイワシをかけて詠み、逆に夫をやりこめたそうです。

はぜやうるしの樹液から作るロウソクはもちらん、菜種などの植物油も江戸庶民にとっては高価すぎてとても手がでませんでした。
そこで活躍したのがイワシのしぼり油。大鍋でぐつぐつ煮たイワシを搾り機でしぼって作る“〆粕(しめかす)”は当時の貴重な肥料でしたが、その時にとれる油を灯油として利用したのです。だから江戸の町はさぞかしイワシ臭かったに違いありません。

獲ったイワシを浜で一週間くらい干し、カチカチに乾燥させたものを干鰯といい、江戸時代の木綿栽培には欠かせない肥料でした。特に身に脂の少ない冬場のイワシが干鰯には適したと言われます。

吉川英治作「宮本武蔵」にも登場する本阿弥光悦は、江戸時代初期の能書家、工芸家として知られ、刀剣の鑑定、研ぎなども家職とする知識人でした。
その本阿弥は刀であればどんな赤鰯(赤く錆びた鈍刀)でも鑑定するが、鯨身(芝居で使う銀紙を貼った擬刀のこと)は鑑定しないという川柳です。

ごまめ(カタクチイワシの幼魚)を別名田作りと言います。
これはイワシの干鰯や〆粕が田畑に貴重な肥料だったからという説と、名産地の銚子は田畑のない所にもかかわらずイワシがたくさん獲れたお陰で石高に換算して1万石程の評価がされていたことから、イワシが“田を作った”という説があります。

マイワシが通常泳ぐ速さ(巡航遊泳という)は、磁束3.5kmくらいで、人が歩く速さとほとんど変わらないj。という説と、泳ぐ速さはだいたい体長に比例し、20cmくらいの成魚では時速2kmくらいで泳ぐという説があります。
マイワシは普段口をいっぱいに開けて泳いでいますが、これは新鮮な海水を鰓(えら)に送り込んで呼吸をするためです。ただし、餌であるプランクトンを食べる時や、身に危険を感じてさっと逃げるときのスピードは別です。

魚も弱肉強食の世界、弱い魚はたくさん産卵し、常に大群となって浮遊します。
マイワシもお腹の中に1尾あたり5万から8万の卵を抱えています。ちなみに鮭は約3500粒。一番産卵数の多い魚はマンボウで約3億粒と言われています。体は大きいけど幼魚の時はいかに天敵が多いかが分かります。

1976年アメリカのベンジャミン・フランクが提唱した“齢をとらない食事法”によるとイワシに含まれる核酸は私たちに体の細胞分j列を助け、細胞そのものを若返らせる働きがあることのことです。
生のイワシ100gの中に343mgの核酸が含まれています。